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2021.02.17 ブログ

【特別転載】入管法改悪反対②-逆転勝訴判決 難民である無国籍者が「地球上で行き場を失うことは明白であった」(Mネット2020年6月号より)

今通常国会で入管法改定法案提出が予定されています。今般の改定法案の問題点についてより多くの人に知っていただくために、移住連の情報誌「Mネット」に掲載された関連記事を公開していきます。

政府は、今回の法改定で複数回難民申請者の送還を可能とする内容を提案していますが、1%にも満たない日本の難民認定率を鑑みれば、行うべきは、複数回難民申請者の送還ではなく、本来難民として認められるべき人が認められる制度への改善の方ではないでしょうか。
今回は「国を追われて約27年、日本の難民申請から約10年」を経て、ようやく難民として認められたジョージア出身・無国籍者Aさんの難民不認定処分取消等訴訟の逆転勝訴判決について、無国籍の問題に詳しい小田川綾音弁護士の報告です。




Aさんの経歴と日本での難民申請まで

 Aさんは、1967年に、アルメニア民族の父とロシア民族の母のもとに旧ソ連(現ジョージア領)で生まれ、旧ソ連国籍を取得。現ジョージア領は、ジョージア民族を多数派とする民族性の強い地域です。Aさんはその容姿や風貌から、ジョージア民族でないことは明らかで、物心ついた頃から日常的に差別や偏見を受けてきました。近隣住民等から暴力を受け、憎悪による脅迫略奪等に発展することもありました。仕事をして雇用主から賃金が支払われなかったり、同僚から嫌がらせを受けたり、生計を維持すること自体が困難でした。

 1991年、Aさんが24歳のとき、ジョージアは独立を宣言。同年旧ソ連は崩壊し、それと同時にAさんは旧ソ連国籍を失いました。この頃現ジョージア領では、ジョージア民族至上主義をうたう大統領のもとで、非ジョージア民族排斥政策がとられ、官民による略奪が横行し、混乱状態に陥りました。

 この頃までに、Aさんの家族は生活の拠点を国外に移していき、両親は離婚していました。一方で、Aさんは長男であったため、母親から言われ、自宅財産を守るために一人ジョージアに留まることになりました。しかし、これ以上は生き延びることはできないと考え、自宅を売却しましたが、売買代金は警察官に略奪されました。Aさんは、1993年、家族を頼ってロシアにわたりましたが、ロシアでの住民登録も国籍を取得することもできませんでした。

 その後、Aさんは安全に暮らせる場所を求めて、約17年間、ポーランド、ドイツ、フランス、ノルウェー、英国等12か国を移動することになりました。行く先々の国で難民としての保護を求めましたが叶いませんでした。その中でAさんは、欧州では希望が見いだせなくなり、2010年に日本に「ロシア村」(すでに廃止された新潟県所在のテーマパーク)があることを知って来日。すぐに難民申請をしましたが不認定となり、退去強制令書も発付されました。


難民不認定後、Aさんの生活の困窮

 2014年12月、Aさんの難民申請の異議申し立ての棄却が告知されました。その後、私は鈴木雅子弁護士とともにAさんの訴訟代理を受任し、2015年5月に訴えを提起しました。Aさんは仮放免許可を受け、難民事業本部から保護費を受給して生活していましたが、異議申し立てが棄却されたので、保護費が打ち止めとなりました。こうした場合、訴えを提起して再申請をすれば、保護費が得られる可能性が高くなることから、Aさんからは、生活のために早く提訴してほしいと懇願されました。Aさんの不安通り、家賃が払えなくなり、生活は困窮しました。Aさんは日本に身寄りがなく、頼れる同族のコミュニティー等の存在もなく、路上で寝泊まりせざるを得なくなりました。その結果、健康状態も悪化していきました。Aさんを支援してきた難民支援協会は、Aさんの困窮を見て、住居を支援。訴え提起のために必要な各種の現実的な支援、日々の食料など生活自体の支援もしてくれました。この支援があったからこそ、Aさんを救済するための訴えの提起ができました。


一審裁判所での3年間の苦闘

 本件訴訟では、難民不認定処分の違法性、在特不許可処分の違法性、退去強制令書発付処分の違法性を争いました。この裁判で勝つと、難民認定と在留許可が得られる可能性が高まるので、Aさんの人生を再スタートするために必要な法的地位を得ることとなります。しかし、日本の難民訴訟の勝訴率は低く、Aさんが無国籍であり、現実に退去強制の可能性が極めて低いことが有利に働くのではないかと考えながら、訴訟を進行していきました。

 Aさんが無国籍となった理由である旧ソ連の崩壊は、本人の責任とは無関係であり、これまでの彼の居場所を求める移動の歴史を踏まえると、身分を証明するための有効な書類は存在しないため、彼を受け入れてくれる国があるとは思えませんでした。国家が、退去強制をすることもできないのに、ただ漫然と国内に放置して、生きるも死ぬも本人の責任次第とすることは、どう考えても理不尽だと思いました。

 また、国は、どの国への送還を希望するかをAさんに確認し、「ジョージアは絶対に嫌」という彼の回答を無視して、送還先をジョージアと指定しました。そのため、国籍国がない者に対する退去強制の根拠条文である入管法53条2項「本人の希望により、・・いずれかに送還されるものとする」に反し、違法であることは明らかであると考えました。ところが、この主張は一審裁判所には全く受け入れられませんでした。

 一審の係属中、Aさんは「右下腿筋膜炎・蜂窩織炎」と診断され、入院を余儀なくされ、治療をしない場合、感染症の進行により下肢切断の可能性もある状態であることがわかりました。こうした健康状態の中、約3年の審理の後、2018年7月に残念ながら全面敗訴の一審判決が出されました。そして、保護費は再度打ち切られ、Aさんは再び生活困窮状態に陥り、控訴審第1回期日を迎える前に、路上生活者に戻ってしまいました。


「今日は2回目のバースデー」、国を追われて約27年、日本に来て約10年

 Aさんは、路上生活により健康がむしばまれていきました。どこにも行き場のない八方ふさがりの状態は明らかでしたが、控訴提起後、保護費の受給は却下され、難民支援協会は、Aさんの行き場のない困窮から、シェルターへの入居を支援してくれました。

 Aさんは、行き場のない現状に押しつぶされそうになり、何度も、この訴訟を諦めようとしたのではないかと想像します。Aさんの生活苦や健康不安、心配ごとは尽きませんでした。そのうえ、私は、Aさんから電話や面談で、彼の先の見えない不安によるすぐに実現不可能な相談もたくさん受けました。その中には、敗訴後の対応や、今すぐ外国に移住したいという相談もありました。こうした中でも、私たちが訴訟活動を継続できたのは、難民支援団体の生活支援があったからです。こうした支援者の支援活動は、私たち弁護士の訴訟活動の礎となっています。

 外国人事件の控訴審では、1回目の期日で審理終結となることが多いため、裁判官に本人の訴えを直接聞いてほしいと思い、本人による意見陳述を行い、代理人としての意見陳述もしました。さらに、国際機関による意見書の提出を予定し、審理の続行を上申しました。難民や無国籍者の支援団体のメーリングリストを通じて、傍聴を呼び掛け、毎回の口頭弁論期日に大勢の方が傍聴してくれました。継続して傍聴に来てくださった加藤桂子弁護士、古池秀弁護士、酒井昌弘弁護士にも代理人就任の依頼をしたところ、快く引き受けてくださり、控訴審においてさらに頼もしい弁護団が結成されました。

 控訴審の裁判官は、この事件の争点に正面から関心を向けている印象を受け、かすかに希望の光を感じる場面がありました。審理を重ねるごとに、裁判所から疑問点や問題意識が示され、それに対応していきました。その中で、新たな争点として、本人が現ジョージア領を追われた後来日するまでの約17年間、安心安全な居場所を求めて12か国を移動し、難民としての保護を求め、地球半周以上もの距離を移動した苦難の歴史を陳述書にまとめて提出しました。

 控訴提起から約1年半、合計6回の審理を経て、2020年1月29日に判決言い渡しを迎えました。控訴審裁判所は、Aさんがジョージア政府の非ジョージア民族差別政策により、生計の基盤が破壊され生存の危機に追いやられるという恐怖を受けたと認定し、「生命身体の自由の侵害に匹敵するほどの生存権侵害の迫害を、公的かつ組織的に受けた」として、Aさんが難民に該当すると判断しました。さらに、Aさんが難民だけでなく無国籍者でもあり、受入見込国が存在せず、「退去強制命令を発令すると、一審原告が地球上で行き場を失うことは一見明白であった」として、退去強制令書の発付を無効と判断しました。あらゆる国から法規範を理由に見捨てられ、人間としての尊厳を奪われてきた彼の体験や心情を伝えた陳述書を提出したことが、裁判所の判断に大きく影響しているのではないかと思いました。

 国を追われて約27年、日本の難民申請から約10年。2020年2月26日、Aさんは「今日は2回目のバースデーだ」と言って、大きな笑顔を見せてくれました。彼は国から難民認定証明書を受け取り、「定住者」5年の在留資格を得て、日本という新しい居場所で人生を再スタートさせました。







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