クルド人に対する迫害を、トルコ政府は「テロ対策」として正当化する。他方、NATO加盟国であるトルコのテロ対策担当機関と、日本でテロ対策を主として担う法務省・警察庁とは、継続的な協力関係にある。トルコ治安当局が「テロ対策」名目で行う措置を、法務省が「迫害」と認定することは、協力関係を阻害するから、あり得ないのだろう。
法務省は、従来、他の機関から認定実務の改善を迫られると、その都度、ルール違反の反撃によって、改善の芽を叩きつぶしてきた。それがなければ、トルコ国籍クルド人の難民認定も、あったのである。前半ではその経緯を紹介し、後半では個別の不認定判断の実状を紹介したい。2004年、トルコ国籍クルド人を難民と認める判決が、東京と名古屋の地裁で相次いだ(注2)。しかし法務省は判決を受け入れず、その対抗策として2004年7月にトルコへ職員を出張させた。職員は、難民認定申請者らが入管に提出した申請者の名が書かれた資料をトルコの検事に提示して質問をしたり、軍や警察官に案内されて難民認定申請者らの実家を訪れて質問したりした。その調査報告書が、人権侵害状況を否定する資料として裁判に提出された。
迫害者である軍人等の傍らで親族が「彼は迫害を逃れて難民申請しました」と発言することは、危険を招きかねない。難民認定手続の秘密を漏洩し、申請者や親族を危険に晒す調査方法を、弁護士会や人権団体等が批判した(注3、4)。
名古屋高裁は国側の控訴を棄却し、さらに判決の中で出張調査を批判した(注5)。そして、同判決は確定した。
ところが、法務省はなおも判決に背いて、再度、原告に対して難民不認定処分を下したのである(在留特別許可は付与された)(注6)。その後、出張調査を行った職員は、初代難民審査参与員事務局長に就任した。出張調査の対象の一人でもあったクルド人難民Aは、日本の裁判で敗訴したものの、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)日本事務所から難民と認められた。
当時、UNHCR日本事務所から難民認定を受けた人が、トルコ国籍クルド人3人を含めて、20人以上いた。他の先進諸国であれば、UNHCRの意見によって認定業務が見直されただろう。だが法務省は、彼らの保護を拒否し、UNHCRとの軋轢が生じていた。
法務省の取った手段は、ここでも恐るべきものだった。2005年1月、法務省はAとその息子をトルコに強制送還したのである。この措置については、弁護士会、人権団体、マス・メデイア等が批判し、国会でも取り上げられた(注7)。
一方、UNHCR日本事務所は、上記の難民たちを他国に受け入れてもらう措置をし、以後、自ら難民認定を行う業務をしていない。法務省の実力行使による威迫が奏功したわけである。
難民不認定処分(一次段階の判断)については、行政不服審査を受けることができるが、いずれも法務大臣等が判断する。だが、2005年に入管法の難民関連部分の法改正が行われ、法務大臣等は、不服審査に関し公正な判断をすることができる者として任命された難民審査参与員の意見を聴かなければならないことになった。
2000年代の半ばにミャンマー(ビルマ)国籍者を中心に難民認定が増加したが、2008年をピークに減少に転じ、一次段階の認定数は2010年26人、2011年7人、2012年5人と減少を続けた。他方、2010年、難民審査参与員の意見による不服審査段階の難民認定数が前年の8人を上回って13人となった。以後、不服審査の認定数は2011年14人、2012年13人と二桁が続き、法務省の判断との乖離が広がった。
難民審査参与員の判断を踏まえて認定実務が改善されて然るべきだったが、このときも法務省はルール違反の手段に出た。2013 年、制度発足後初めて、難民審査参与員の意見を覆す不認定処分を行ったのである。その件数は7件にのぼった。同年の記録上では、一次段階の認定数3件、不服審査の認定数3件だったが、参与員意見が尊重されていれば後者は10件だったはずである。同様に、翌2014年にも5件、2015年にも1件、参与員意見が覆された(注8)。
こうして法務省は参与員に「身の程」をわきまえさせた。おそらく、参与員に対して「法務省から依頼された立場」というイメージを抱かせる働きかけも行われただろう。以後、不服審査段階の認定数は一桁にとどまっている。難民審査参与員の意見が覆された案件に、トルコ国籍者が含まれていたことが判明している(注8)。クルド人だった可能性が高いだろう。
少し横道にそれるが、2005年の法改正の主要点のうち、前述の参与員制度のほかに、難民認定申請者の地位の安定化のための仮滞在許可制度も、許可率が低下しており機能不全状態にある(注9)。現在、法務省は、送還執行停止制度を崩そうともくろんでいる。国会が行った制度改善を、法務省は15年をかけて無効化してきたわけである。
一般に、難民は、主張を裏付ける証拠の提出が困難であり、にもかかわらず厳格な証拠を要求する日本の実務が、少ない認定数の背景の一つといわれている。そのうえ、日本におけるクルド人難民は、存在する証拠すらもねじ曲げる法務省の判断すら、受ける状況になっている。以下では、その一例を紹介しよう。
トルコ国籍クルド人Bは、難民不認定とされて2004年にトルコに送還されたが、空港で拘束され、鞄に入っていた日本におけるクルド人たちの祭等の写真を押収された。祭等に参加したこと自体が処罰の対象として起訴され、実刑判決を受けた。写真に写っていた数十人も指名手配された。
Bは偽名で出国、再来日して難民認定申請をしたが、Bのトルコにおける裁判の多数の資料を、法務省はねつ造と決めつけた。
だが、写真により指名手配されたうち2人がトルコで訴追され、そのことを日本の弁護士が渡航してトルコの弁護士に面談して確認した。さらにBの兄(日本に定住している)がトルコに渡った途端に逮捕される等の事態が次々と積み重なった。B自身の難民不認定処分取消訴訟で、東京地裁、東京高裁はBの裁判資料を本物と認めた(注10)。ただし法務省は未だにねつ造だと主張し続けている。
だがなお、Bは判決で難民と認められなかった。東京高裁は、「日本のクルド人団体が、祭に飾る旗をテロ組織から購入して代金を支払ったことがテロ支援であり、それを知って祭等に参加したからBは有罪となったので、迫害でない」と判示した。
しかし、トルコの判決にそんな記載はない。そもそも反政府勢力が旗の通信販売など行うわけがなく、クルド人たちは判示内容を聞くと失笑している。
また同判決は「トルコで、単なる集会参加によって処罰され得る状況があり、拷問・虐待が行われ、民族対立が高まっている」という2009年米国国務省報告書等の内容を、「2012年(結審時)においても同じ状況があるとは考え難い」と判示した。実際は、同年の米国報告書にも同様の記載がある。裁判所は、法務省の「テロ対策の重要性」の主張に萎縮したか、忖度したとしか思われない。
Bから押収された写真によって指名手配されたクルド人の一人の、難民審査請求手続の口頭意見陳述が2019年あった。代理人である筆者が「Bは祭等に出ただけで有罪とされた」と主張したことに対し、一人の参与員が疑義を示し、「(トルコの判決理由には)B は、日本にいたときに、クルド人の協会に関係して、集会に出る等したと記載されています。それだけかどうか判らないのではありませんか。」「(判決に書いていない何かの理由が)あるかもしれません。」などと発言し、証拠より予断を重んじていることを露わにした。この予断は、法務省が刷り込んだ以外の何ものでもない。
日本でトルコ国籍クルド人が1人も難民認定されないことは、難民側に理由があるのではなく、法務省が手段を選ばず貫く方針なのだと、私は理解している。
注1 全国難民弁護団連絡会議(以下「全難連」)HPの統計
注2 名古屋地判平成16年4月15日、東京地判平成16年4月20日
注3 「法務省入管の難民現地調査に関する人権救済申立事件(警告)」 日弁連HP
注4 抗議声明(全難連2004. 8. 4 全難連HP)
注5 名古屋高判平成18年6月30日
注6 同様の事例で、再不認定を違法とする判決が最近ある。弁護士ドットコム2018年7月5日「裁判で勝っても「難民不認定」となったスリランカ人、再び勝訴・・・東京地裁、認定命じる」
注7 非難声明として東京弁護士会「クルド系トルコ人難民の強制送還に対する会長声明」(2005年2月24日)等、市民運動として法学館憲法研究所HP「難民訴訟(10)カザンキランさんの強制送還に対する抗議集会」、クルド難民二家族を支援する会編著「難民を追い詰める国」(緑風出版2005年刊)等、各党の動向として「しんぶん赤旗」2005. 1.26記事、福島みずほ「マンデート難民の送還」(「部落解放」2005年3月号記事)、民主党HP「クルド難民カザンキランさんらの強制送還に対し、緊急申し入れ行う」(2005年1月20日)等、国会の動向として第162回国会衆議院法務委員会議事録平成17年3月29日等。ドキュメンタリー映画「バックドロップ・クルディスタン」(野本大監督2007年)もある。
注8 第189回国会・質問第233号 石橋通宏参議院議員「我が国における難民認定の状況に関する質問主意書」(2015年8月10 日)の回答
注9 法務省プレスリリース平成20年2月15日及び令和2年3月27日によれば、2007年の仮滞在許可79人、不許可359人に対し、2019年の許可25人、不許可733人である。
注10 東京地判平成23年10月27日、東京高判平成24年7月25日