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2020.10.04 ブログ

【特別転載】入管長期収容問題を考える⑤ー長期収容と繰り返す再収容の苦しみ 〜サファリさんインタビュー(Mネット2020年4月号より)

政府は、昨年10月に、送還忌避者の増加や収容の長期化を防止する方策やその間の収容の在り方を検討する目的で、法務大臣の私的懇談会である第7次出入国政策懇談会の下に「収容・送還に関する専門部会」を設置しました。
2020年6月に公表された当専門部会からの「送還忌避・長期収容問題の解決に向けた提言」には、国外退去に応じない場合の罰則の創設などが盛り込まれており、政府は、早ければ、今秋開催が想定される臨時国会に入管法改定案を提出するとの見通しが報道されています。

移住連では、この提言のもとにすすめられる入管法改定に反対する立場から、さまざまな取り組みをすすめていきます。
その一環として、この問題について特集した移住連の機関誌「Mネット」209号「どうする?入管収容施設での長期収容問題〜その実態と解決に向けて」に掲載された記事の中から、関連のものを毎週公開します。

今回公開する記事は、昨年入管がハンストを行う被収容者らへの対応として異例な形で実施していた2週間仮放免と再収容措置のただ中に置かれたイラン出身のサファリさんへのインタビューです。




イラン国籍のサファリ・ディマン・ヘイダルさんは、 母国での迫害を訴え難民申請をしたが、不認定処分を受け、現在3回目の難民申請中である。1回目の難民申請後、仮放免が認められ、2カ月ごとに更新手続きを繰り返してきたが、2016年6月、更新が認められ ず、理由が分からないまま収容された。その後、2019年7月に仮放免許可を得るまで、3年以上の長期にわたって、品川入管を経て 茨城・牛久市にある東日本入国管理センターに収容され続けてきた。同年6月から1カ月以上のハンガーストライキを決行し、7月31 日に仮放免許可が下りたものの、2週間で再収容。もう一度ハンガーストライキを行い、10月17日に2回目の仮放免許可が認められたが、10月31日に2週間で再び収容。

2020年1月7日から3回目の仮放免認可を受けていたサファリさんに、1月21日の出頭日直前にお話を伺った。



―2016年6月に収容された時、どのような状況だったのでしょうか?

その時まで仮放免の更新がずっとできていたのに、2016年6月8日に「更新できない」と言われました。理由を聞くと、「入管の都合」と答えるだけです。その日に収容されてしまい、品川の入管にいて、その後、牛久の入管に移されました。

―3年2カ月にわたる長期収容生活はどのようなものでしたか? 収容所内ではどのような生活を送っていましたか?

収容生活は、狭い部屋に国籍も文化も言葉も違う人が何人も入れられて、皆、ストレスがたまります。それなのに部屋は自由時間(9: 20~11:40、13:00~17:10)以外は外から鍵を閉められて、部屋から出ることができません。 換気扇が付いていないから、部屋が臭 くなるし、皆にトイレの音が聞こえてし まうので、皆、トイレを我慢して便秘になります。食事もまずいので、例えばホ テトチップスを砕いて、その袋の中に皆のご飯を入れて、〝チャーハン〟を作ったりして、工夫していました。ただ収容生活が6カ月過ぎたところで、皆、精神的におかしくなっていきます。でも、体調を崩してもきちんとした治療はしてもらえません。

―3年2カ月も収容が続いた中で、特に辛く、耐え難いと思った経験として、どんなことがありましたか?

耐え難いことは、悪い担当さん(職員)が、「サファリ」と名前を呼び捨てにして、「サファリ、こっち来なさい!」「サファリ、 座りなさい」と大声で命令したり、にらみつけたりすることです。同じ人間として扱われていないと感じます。それから、外の病院に行く時は、手錠をかけられ、腰縄をつけられる。何も悪いことをしていないのに、病院で皆が犯罪者のようにジロジロ見てくる。 人間としてのプライドを傷つけられます。それから、職員が相手(被収容者) によって「ルール」を変えることです 。ある人には「いいよ」と言って、別の人には「ダメ」と言う。不公平です。

―ハンストを決意したのはどうして でしたか? ハンスト決行中はどのような苦しみがありましたか?

収容生活で一番つらいことは、希望が見えないことです。3年2カ月の間、仮放免の申請を10回以上はしたと思います。仮放免の申請 をして、「もうすぐここから出られる」と思って期待しているのに、不許可になる。また申請をして、 期待するのに不許可になる。この繰り返しの中で、6カ月経った頃からだんだん精神的に不安定になり、いつまで収容が続くのか分からない状態で、どんどん追い詰められ、1年経った頃には、眠れなくなっていきました。それで、ここから出るには、自分の体を壊して病気になるしかないと思い、ハンストを決意しました。2019年6月7日、ハンストを始めました。でも職員は、お弁当を片付ける時に中身をチェックしない ので、ハンストをしていることに気付かない。それで6月14日に「ハンストを宣言」し、1カ月間、何も食べなかった。 最初の5日間は水も飲みませんでした。10キロ以上減り、3回血を吐きました。苦しかったけど、これしか方法がありませんでした。


―ハンストにより最初に仮放免された時はどのような気持ちでしたか?

うれしいはずだったのですが、「2週間の仮放免」だと知った時は、入管に「 ハメられた」と思いました。あの時、承諾書にサイン をしないで、普通の仮放免がもらえるまで頑張れば良かったのかと思ったこともあります。仮放免の1日目から、2週間後の出頭日のことを考えてしまいます。出頭日が近くなるにつれて、日に日に不安になって、怖くなっていきました。

―その後、2週間で再収容されたことで、サファリさんの心身にどのような影響がありましたか? 

出頭日には「抑うつ状態」の診断や、十二腸潰瘍などの疑いが出ていました。でも医師ではない入管職員の判断で、手錠をかけられ、腰縄をつけられ、牛久に再収容されました。入管職員は、2週間の仮放免の間に俺が逃げると思っていたようです。俺が逃げたら、外国人に悪いイメージがつけられるから。でも俺は出頭した。俺は絶対に逃げません。ある職員から「収容は見せしめ。自分の口から『(母国に)帰る』と言うまで収容する。3年で足りなければ、4年」と言われました。

―2回目の仮放免と再収容を経験して、次第に「食べられない」状態になったのは、いつ頃からですか? どのような状態になったのですか?

2回目の仮放免で病院に行き、「うつ病」と診断されました。出頭日に、診断書を持っていったのに、また医師ではない職員の判断で、手錠をかけられ、腰縄を付けて、牛久に戻されました。再収容されて、すぐにハンストを始めました 。入管センターで〝殺され る〟なら、命の危険を感じてもハンストをして、 外に出たいと思ったからです。最初は、自分の意志でハンストをしていたのに、 次第に食べようと思っても、吐くようになりました。のどが痛くなって、30分くらいすると吐く。食べては吐く―。この繰り返しで 、 物(固形物)がぜんぜん食べられなくなって、体が食べ物を受けつけなくなりました。

―今回3回目の仮放免許可はどのようにして出ましたか? 3回目の仮放免許可を得た今、どのような思いですか?

めまいがして起きられない。横になっても、めまいが止まらない。 職員から「食べたら、ここ(入管センター)から出してあげる」と言われたのですが、食べようとしても吐いてしまいます。 スープのようなものを少ししか飲めなくなり、命の危険を感じるようになりました。今の願いは、壊れてしまった精神と体を元に戻すこと。健康になるまで、ゆっくり治療したいです。今度また収容されたら、命の危険があっても治療を 受けられない。それがもっと怖い。先 が見えません。

―日本政府への要望、また日本社会に住む私たちに伝えたいことがありましたらお願いします。

俺たちも、皆さんと同じ人間だということを分かってほしい。俺たち一人一人の状況を理解し、皆に伝えてほしい。 日本人は優しい。 日本人の友達もたくさんいます。日本が好き。でも「入管」だけは日本じゃない。日本でただ普通の生活をしてきました。犯罪をしたこともありません。普通の仮放免をもらって元の生活に戻りたいだけなんです。


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追記:サファリさんは、2020年1月21日の出頭時に再収容され、2月25日現在、収容中である。収容所から出られる「唯一の方法」 が ハンストだったが、現在は、食べようとしても流動食しか喉をとおらない状況になり、希望を見失いかけている という。この3回の「2週間の仮放免」と再収容により、サファリさんは「死にたい」気持ちが強くなり、無意識のうちの自傷行為が見られるようになっている。



 <2020年9月3日追記>
このインタビューの後、2020年3月27日に仮放免許可の決定がされ、サファリさんは4月3日に仮放免された。





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