日本でフィリピン語を教える大学は少ない。4年制の外国語学部ならば大阪大学外国語学部(旧・大阪外国語大学)と東京外国語大学だが、 それ以外で地域言語(第二外国語)科目にフィリピン語があるのは、上智大学、拓殖大学、静岡県立大学、南山大学、名古屋学院大学など少数だ。マリちゃんは現在、静岡県立大学国際関係学部でフィリピン語(初 級~中級)を担当している。フィリピン語という言語があることさえ知らずに入学する学生がほとんどだが、人生経験豊かで温かい人柄のマリちゃんの吸引力はすごく、新入生向けガイダンスの模擬授業で心をつかまれた学生たちは仲良くにぎやか。
「フィリピンのルソン島南部にあるビコール地方出身です。地元で高校教師をした後、奨学金を得てフィリピン国立大学で教育学の修士号を取り、ビコール大学教育学部で専任教員として働きました。その頃、青年海外協力隊員としてフィリピンに赴任していた夫と結婚することになりました。せっかく得た大学教員のキャ リアをあきらめなければならず、悩みに悩んだ末に仕事をやめて1985年に来日しました。当時、日本で外国人女性ができる仕事はほとんどなく、寂しかったですね。」
「東京と横浜で暮らして日本語を学んだ後、夫の転職で静岡県浜松市に住んでいた頃、家の近くの会社で社員相手に英語を教え始めました。その伝手で近所に住むご夫婦から故・ 鈴木静夫先生(東南アジア研究の専門家で当時、静岡県立大学教授)を紹介され、静岡市に引っ越して1989 年から静岡県立大学でフィリピン語を教えることになったのです。」
夫は国際協力機構(JICA)の専門家として海外赴任が多く、マリちゃんは日本で一人暮らし状態。フィリピン語の非常勤講師のほか、公民館で英会話を教え、静岡市国際交流協会と静岡市教育委員会で相談員をしながら、司法通訳者としても働くことになる。1989年に外国人支援団体「アジアを考える静岡フォーラム」が設立され、そこに参加する中で弁護士と知り合い、司法通訳の仕事を頼まれたからだ。
在日フィリピン人の増加に伴い、 教育や司法の現場でフィリピン語を使える人材が求められるようになった。1980年代半ばに来日し、日本語を習得していたマリちゃんには各方面から声がかかり、フィリピン語と日本語を使う仕事の「掛け持ち」が日常となる。
「今では日本を悪く言うフィリピン人は減りましたが、私が幼い頃(1960 年代)は、フィリピンにも反日感情がありました。両親は戦争を知る世代ですしね。私が(日本人男性と)結婚したいと言った時も、父母には反対されました。戦争の記憶がある母からは 「日本人は残酷だから、やめたほうがいい」と言われ、マニラに住んでいる親戚には「日本人はヤクザが多い」と言われました。当時 (1980年代半ば)はそんなイメージだったんです。その後、自分が日本人と結婚したことで、親や親戚たちにも、日本人が他者に対して尊敬の念があり、清潔好きな人たちだとわかってもらえて、日本人に対するイメージが変わったようです。それは私も同じ。私も幼い頃は日本人といえば「敵」で「残酷」だと思っていました。来日してからは、教養があり、謙虚で、正直な人たちがいる、発展 した国だとわかりました。やはり、 実際に人と人が触れあってできる友情が大切だと思いました。」
「私が来日した当時はフィリピン人が少なかったのですが、1980年代の終わり頃から「水商売」で働くフィリピン人女性が増えたとニュースで見てショックを受けました。私の周りの日本人も同様に感じたようです。今から30年前のことですが、その頃は日本人とフィリピン人はお互いにあまりよいイメージがなかったのです。だから、私にできることは「友情づくり」だと思いました。受講生は各学年10~20人くらいですが、学生たちを自宅に招いてバーベキューをしたり、大学祭でフィリピン料理の屋台を出したりしました。」
「1995年から毎年、希望する学生を5人くらい、夏休みにフィリピンへスタディツアーに行かせています。 故郷のビコールで、現地の大学や高校で教員をしている姉や義兄が日本人学生の世話をしてくれます。学生たちは現地で私の家に泊まり、私が故郷で高校教師をしていた頃の教え子が学生をホームステイに受け入れてくれています。日本人学生がフィリピンに行くのは以前から簡単です が、ビザの取得や費用の面で、フィリピン人が日本に来るのは、ごく最近まで、すごく難しかったのです。 こうした機会で私の故郷の若者たちと静岡の教え子たちが友達になってくれて嬉しかったです。スタディツアーに参加したことでフィリピンを好きになり、その後、交換留学生としてフィリピン国立大学で学んだ学生もいました。」
1993年、一人息子の直樹君が誕生。 夫は海外赴任が続き、マリちゃんは今でいう「ワンオペ育児」と仕事に奔走する。直樹君が保育園から小学校低学年の頃には、静岡大学大学院に通い、教育学の修士号を取得した。 人生で一番忙しかった時期を支えたのは、近所の人たちだった。マリちゃんが仕事の日は近所の人が直樹君を保育園に迎えに行き、直樹君が病気になると病院に連れて行ってくれた。
「静岡は平和で暮らしやすい場所。 家を建てたときは、(公民館で教えていた大人向けの)英会話クラスの生徒さんたちが引越しを手伝ってくれました。子どもが小さかった頃は近所の人がよく助けてくれたし、静岡県大の学生もよく家に来て子どもの面倒を見てくれたりしました。フィリピンでは家族がともに暮らし、夫婦が力を合わせて子どもを育てるのに、私の夫はあまり自宅にいなくて寂しかったです。それを補ってくれたのが、周りの人たちでした。私は周りの人たちのおかげで、日本で自分が「守られている」と思うし、自分が「愛されている」と感じるのです。」
「フィリピン語クラスの学生たちは素直で謙虚で良い子ばかり。自分がまだ若かった頃は、学生に対して自分の弟や妹、友達のつもりで接していました。そのあと、学生がわが子のような存在になり、今では孫のような気持ちですね。英会話クラスの生徒さんの中には、私との交流を通じてフィリピンに興味を持ち、旅行に行ったという人もいます。フィリピン語や英語を教える仕事があったから、私は日本に居続けられたんだと思います。」
みんなが育てた直樹君は、もう社会人。マリちゃんは2003年に帰化して日本国籍となり、名前を「マリルー」から「真理」に変えた。
「フィリピンにいた頃の私は愛国主義的で、フィリピン人としてのプライドを大切にしていました。でも日本での生活が長くなり、考え方も食べ物の好みも、自分が日本文化の中に完全に「溶けた」という感覚を持つようになって、国籍も変えようと思ったのです。日本国籍のほうが海外旅行をするときに(ビザなしで行ける国が多いので)便利、などという軽い気持ちではなくてね。」
「とはいえ、中身はフィリピン人なんですよね。日本は平和で良い国。リンゴがおいしい。でも、フィリピンにいるお母さんはこのリンゴを食べられない。その罪悪感があって、フィリピンに送金をしてきました。これは義務だと思ってしまうんです。フィリピン人は、この気持ちなんですよ。フィリピンに自宅とお墓がありますし、日本でもお墓を買いました。老後は日本にいるか、フィリピンに帰るか、まだ決めていません。フィリピンに帰って自宅で暮らし、ケアギバー(介護士)を雇って面倒をみてもらおうかな。だけど日本の老人ホームにも入ってみたいです。」
「日本人は若いころから貯金をして老後に備えるけれど、私はお金があれば誰かにあげてしまう。そのために自分の蓄えが少ないのが心配ですね。どうにかなるかなあ。ひとつ悔いが残るのは、やはり、自分が非常勤講師だということです。もちろん、非常勤ならではの自由さもありますが、常にひとつの職場に所属がある専任の仕事の魅力もあります。フィリピンでは専任教員でしたから。あの頃を思い出すことも、よくあるんですよ。」