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2019.10.03 ブログ

移住者のパイオニアー譚 俊偉(たん しゅんわい)さん(Mネット2019年8月号)

岡山県総社市 人権まちづくり課 国際交流推進係 譚 俊偉(たん しゅんわい)さん

譚さんのプロフィール : 1973 年サンパウロ生まれ、96 年に日系2 世の妻と来日、ゴルフ場キャディー、工場での通訳を経て総社市職員。2016 年に日本国籍を取得。

岡山県総社市 人権まちづくり課 国際交流推進係 譚 俊偉(たん しゅんわい)さん

総社市で働くようになったきっかけを教えてください。

譚:人権まちづくり課の国際交流推進係は、平成21(2009)年度の4月にできたものなんです。当時リーマンショックで、総社はブラジル人、南米の方が多かった。それで市長が、外国人が相談する窓口がないし、皆さん困っているのではと言って、この係ができました。当時、私は工場で通訳として仕事してたんですけど、解雇になりました。ハローワークにボランティアの通訳として、もちろん自分も仕事を探さないといけないという感じで行きました。ちょうど総社市が、緊急雇用でブラジル人、南米の方の相談窓口の通訳を出していたので、ちょっとやってみようかなと思って。

それまでは工場で通訳をしていたのですか?

譚:派遣会社の通訳でした。当時は工場で130-140 人のブラジル人が働いていたので。私は日本に来てから、ゴルフ場で10年間働いて、そこで日本語を学んだ後、仲間の困っていること、自分が日本に来たときに色々困ったことを伝える仕事ができればいいなということで、工場に入って通訳の仕事をしました。

最初に日本に来たのはいつですか?

譚:平成8年、1996 年です。妻が日系人で、少し日本語ができたんですけど、私はまったく日本語ができず文化もわからないから、色んな工場、色んな面接を受けても全然だめだった。全然仕事がなく、結局、和歌山県のゴルフ場に行ったんです。そこで半年ゴルフのルールとか勉強して、じゃあ岡山県にあるゴルフ場に行ってください、と。それで、岡山に来ました。  
 ゴルフ場はキャディーをしながら、色んな話をする。私は日本語学校に行きたかったのですが、行くチャンスがなかった。で、自分で辞書を持ちながら毎日ゴルフ場を回っていて、お客さんと会話するなかで日本語を勉強しました。

ブラジルにいたときも働いたことはあったのですか?

譚:大韓航空の正社員でした。すぐ結婚して、妻は日系二世です。私たちが結婚して、すぐ妻の親が日本に戻りました。彼女はもう少し親と過ごしたいという感じだった。私も生まれ育ったところが日本人が多いところで、いつか日本に行きたい、と思っていたので。で、当時、デカセギブームだったので。私たちもちょっとだけ一年間行って戻ったらいいんじゃないかなっていう感じでした。  
 でも結局、ここに来て全然、現実が違う。気づいたら一年間が終わりました。それで、まあ少しプライドというか、日本に来て一年間住んでいて、日本語もできない、日本の文化もわからない、日本人の友達もできてなくて、何しに来たっていう感じで、もう少し頑張ろうと思って、で、結局今に至りました(笑)。



総社市の話に戻るんですけど、始めは緊急雇用で雇われたのですよね。

譚:その後、嘱託職員になりました。もともと緊急雇用の契約が半年で、私も応募したときは仕方がないかなと。で、縁があって、緊急雇用の契約が切れてすぐ嘱託に。総務も市長も、多文化共生に力を入れたいと思っていて、相談件数も見てやっぱり必要だな、という感じで。相談はずっと続いたんですね。
 相談者のいとこさんが来て、奥さんが来てとか、そういう感じで、口コミで。窓口に来たり、もしくは電話だったりもう本当に全国から相談がありました。  
 それで30(2018)年の4月から正職員になりました。今は私が、ポルトガル語と英語、スペイン語を対応し、他に中国語、ベトナム語の通訳がいます。

制度のこととなどは、働きながら覚えていったんですか?

譚:そうですね。仕事の内容としては、一緒に色々な窓口、例えば学校関係とかだと、就学援助って何ですかとか。窓口に一緒に行って職員から聞いて、自分で説明する。保険、介護…本当にいろんな部署をまわって、自分も勉強になるからすごい嬉しいです。

譚さんが一緒について行ってくれるなら安心感がありますね。

譚:相談が終わった後、その人がつまずいていたことを解決できたって嬉しい顔をして帰ると、自分のことを思い出すからね。例えば私は、子どもが生まれたとき、全然日本語ができなくて、児童手当って何ですか、とか。保険入らないといけないとかもわからない。
市役所の窓口に行ってもあまりコミュニケーションできなくて。当時、今の自分がやっている役割の人がいたら助かったなと思いますね。  
 若いときは何も考えてなくて、やっぱり子どもが生まれたときですね。これから長く日本に住むか、もしくは小学校に上がるまでに帰るかは関係なく、とりあえず子どもは自分の責任。その責任を考えて住んでいる国のルールを守らなければならない。自分がいくら
ブラジル人でも、お客さんではないんですよね、やっぱりそこで住民と一緒に過ごしている、ちょっと細かいこととか勉強しなくてはならないと。

子どもが生まれたことと関係するのですか?

譚:大きいですよね。私と妻も仕事をしなければならないことで、保育園が預かる。保育園にただ預けてお金を払うだけではなくて、保育園って何をする?子どものことどういう風に見てくれる?私は親として何をすべきか?今度もし学校にあがると、どういう風に先生とコミュニケーションを取れるか。そこが本当に大きかったのかなと思う。

今まで日本に来てからで、一番苦労したことは?

譚:やっぱり病院です。子ども関係ですけど、まだ小さい時に急に熱を出して、中耳炎だったんですけど、どういう風に説明すればいいか、こっちからうまく伝えることができないから向こうも何も対応できないですね。他にも子どもが学校から色んな手紙をもってくるとか、子どもが学校で一人だけ外国人だから絶対いじめられるとか、色んな心配がありまして。参観日とか、他のお父さん、お母さんたちはしゃべっているのに、私は何にもしゃべれない。「何で僕のお父さんだけが他の人と話をしない」「何で僕のお父さんだけが先生の言っていることがわからない」って子どもに恥ずかしい思いをさせる。それを気にして、本当に何かしないといけない
かな、と。

自分のなかで人生の転機というか、これがきっかけで変わったなというのはありますか?

譚:
私は、市役所に行くことが一番苦手だったんです。それが、ここで仕事始めて、あら私、今市役所で働いている、人生わからないなっていう感じですよね(笑)。当時、日本語できない、さらに市役所では難しい日本語しか使えない、パンフレットがひらがなでもわからない、職員も堅苦しい日本語しか使えない、ああ嫌だな、でも行かないといけない、と。  
 でも一番大きく勇気を与えてくれたのは、市長の話。特に外国人に対して、「日本に住んでいる、半年、一年、三年、関係なく、あなたは日本に来たことで住民だよ」って。「日本語、文化が違うでもあなたは住民だよ」って。他にも「僕は日本人として、外国人が帰るときにいい思い出を持って帰ってほしい」っていつも言われていたので、「ああそういう人がおるんだ」と思いました。それで自分もがんばると思うようになりました。日本人と外国人がお互い理解しあう環境をつくれる役割、そこを任せられたことはすごく大きいかなと思います。市長は、橋本(龍太郎)元総理の秘書だったときに世界中をまわって、ブラジルに行ったときにはブラジル人はこういう対応をしてくださったとか。だから今の僕のポジションとしては、お返しするべきだよっていう言い方をいつもされるので。ああ素敵だなと。それで、私はそれを他の外国人にも伝えたいっていうのがあるんですね。その当時は、外国人、日本人にちょっと壁があったので。やっぱり行政から言われると、市民の方が納得されることが多いので。


じゃあそれで日本の人たちの意識も変わったんですね?

譚:変わった、すごい変わったんですね。例えば、市の一番大きなイベントは総社インターナショナルフェスティバル。外国人コミュニティと日本人のコミュニティが一緒に考えて、毎年ずっとやっている。本当に町内会のおじいちゃんたちが一緒に出てきて、私たちに何ができるかって。それが当たり前のことになっているから、嬉しい。

仕事のなかで充実感もあると思いますし、逆に難しいなと思うことはありますか。

譚:通訳のなかで一番難しいのは医療通訳。もう何回も研修に参加したりしているんですけど、やっぱり命のこと、病気のことがあるので。  
 (充実感があるのは)ここで通訳を始めたときに、不登校の子が何十人かいました。ブラジル人学校があったのですが、リーマンショックで皆、学費が払えなくて、日本の学校に戻らなければっていうなかで。当時、私と上司が家をまわって調査して、どこどこに不
登校になっている子がいる。そうしたら親に、あなたのお子さん学校に行かせてくださいって言って。その子に勉強できるような、日本語できるようなサポートしたいんですって言って、親の信頼をいただいて。その後、その子どもたちが来て、「譚さん、高校に入りました」「高校卒業しました」「大学卒業しました」とか。…うわあそうなんですか、と。あの当時を思い出すと…。親も会うたびに「就職しましたよ」とか。そういうのを見ると、「よしできたな。この仕事をまた頑張らないといけないな」って思うんですね。

本当に成長を支えている感じですね。今仕事で力を入れているのはどういうことですか。

譚:外国人が日本で一番最初に来るのが市役所ですよね。そこでとりあえず基本のルールを母国語で書いたパンフレットを渡したりとか、相談できる窓口はここだよ、とかを伝える。例えば、今、総社市の外国人は1560 人中781 人がベトナム人なんですけど、とりあえず彼らが困ったときには迷わずにどっかの窓口で相談できるように。   
 彼ら(ベトナム人)をみると、我々ブラジル人の30 年前と同じような感じなんですよね。まったく何もわからない、全部ゼロから教えないといけないんですよね。例えば休みの日、すぐ歩道のところでバーベキューをしたりとか。ダメだよって、彼らにとりあえずアドバイスをして。なんか「ベテランの外国人」としてみたいな。

この仕事のどういうところが好きですか。

譚:人のために働くことですよね。工場の通訳は、例えば機械の動き方とか、何かここからここまでの通訳。ここ+αにはならない。市役所だと本当に全般の生活について通訳になることがいいなあという感じ。面白いのは、僕はお父さんが中国人で、お母さんはスペインとイタリアのハーフで。お母さんが色んな人を支援してたんですよ、小さい時に。当時は何でお母さんがそれをしないといけないっていうイメージだったんですけれども。今はお母さんがああいう場面を色々見させてくれてありがたかったと思うんですね。

これからの夢はありますか。

譚:これから外国人がもっともっと入ってくるようになるんですよね。外国人のためにきちんとした法律を作ってほしい。外国人がここに来てこれを守らないといけないというだけではなくて、きちんとした法律で皆さんを守ることができると。彼らが安心して日本に来て安心して日本で過ごせる。日本人しかできない、外国人はできないとかいうものが、残念ながらまだあるので。それと誰の仕事かわからないんですが、一人、二人が立ち上がって、さあ外国人のことを考えようってなってほしい。ヘイトスピーチとかばっかりで、もうそれは仕方がないと思うんですけど、でも外国人が悪い思いするんじゃなくて、外国人が日本で働いている、がんばっているじゃない。だからそれに目を向けてほしいというのがありますね。  
 もう一つは、日本人の方々が自分らのもっている文化とかをなくさないこと。ずっと続けて、次の世代につないでほしい。

ありがとうございました。

 

(髙谷 幸)


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