アニーは、日本人とのパートナーの間に日本で生まれた子どもと二人で暮らしています。フィリピンの貧しい家庭に長女として生まれたアニーは、幼い頃から大きくなったら自分が家族を支えたいと思っていました。ハイスクールを出た年、近所の人から「日本に行けば仕事がある」と誘われて、来日しました。ビザ(在留資格)の滞在期限が切れた後も飲食店で働いていたところ、そのお店で出会ったのが、子どもの父親です。彼は、アニーと結婚の約束もしていたのに、子どもができたとわかると、どこかに消えてしまいました。その後、アニーは一人で子どもを産み、育ててきました。ビザがないので、生活保護を受けることはできず、小さい子どもを置いて昼も夜も働きました。一方で、お店で働いているときも、外出するときも、警察に見つからないようにビクビクしていました。
日本で暮らす外国人は在留資格をもって暮らさなければならないとされています。しかし、この在留資格は誰でももらえるわけではありません。日本人の配偶者がいるか、認められた仕事をしているかなどによって、ビザが認められるか判断されます。アニーのように、日本人の子どもを育てている場合も通常はビザが認められますが、アニーの場合、パートナーから子どもを認知してもらえず、ビ
ザはないままでした。
アニーたちのように、日本で暮らすための有効なビザをもっていない人びとのことを「非正規移民」といいます。このうちビザの期限が切れてしまったオーバーステイは、2019年現在、約74,000人いるとされています。「非正規移民」は、しばしば「不法滞在者」と呼ばれていますので、「彼ら彼女らは犯罪者ではないか!」と思う方もいるかもしれません。しかし、ビザがないという状態は、他者を傷つけるという意味での犯罪とは大きく違います。そのため国連でも、“illegal migrants”(不法移民)ではなく、“irregular migrants”(非正規移民)という用語が使われています。
日本で非正規移民が増加したのは、1980年代後半から90年代初頭にかけてです。バブル経済の中、人手不足に直面した企業は移住労働者を雇うようになりましたが、当初、彼らの多くは非正規移民でした。その数は1993年には、約30万人に達しました。当時、政府も警察も、日本の人手不足を支えている非正規移民の存在を黙認していました。しかし2000年代半ばになると、治安悪化の「元凶」として「不法滞在者半減政策」が実施されることになりました。同時に、在留特別許可も積極的に認められたことによって、非正規移民の数は急減することになりました(図表10)。このような歴史は、非正規移民に対する政府や社会の、ご都合主義的な対応を映し出しています。
入管は、非正規移民を「法違反者」として収容し、退去強制したり、在留特別許可を与える(ビザを認める)権限をもっています。しかし、非正規移民も「生活者」であり、労働や医療、教育の領域で認められている権利があります。とはいえ弱い立場に置かれているがゆえ、その権利を行使できないことも少なくありません。行政や医療機関が、入管への通報を楯に非正規移民の権利へのアクセスを閉ざす例も目立ちます。しかし通報については、法務省通知(法務省総第1671 号、2003年11月17日)に沿って、行政目的を考慮して個別に判断することが必要です。
さらに、この地で社会関係を築き、生活基盤を築いている非正規移民の在留特別許可を積極的に進めることも必要でしょう。アニーとその子どものように、日本での生活を希望する人たちには、それぞれの事情があります。非正規移民の場合も、他の移民と同様、移住先での暮らしが長期化する中で、人間関係ができ、子どもが生まれたり生活基盤が作られ、その地が「ホーム」になっていきます。とするならば、在留資格がないという理由だけで、彼ら彼女らを「ホーム」から強制的に引き剝がすことは非常に暴力的なことではないでしょうか。
日本で働き、暮らしている非正規移民に滞在権を認めること(アムネスティ/正規化)は、「誰一人取り残さない」社会への一歩といえるでしょう。