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2019.05.23 ブログ

ブログスタート記念!トーク 温又柔×三木幸美「ここで暮らす KOKO DE KURASU.」

ホームページリニューアルに伴うブログスタート記念として、移住連情報誌「Mネット」204号から、移住者の権利キャンペーン「ここにいる koko ni iru.」企画のトークイベント「ここで暮らす KOKO DE KURASU.」の報告を転載いたします。

「ここにいる」大阪企画の第4回目では、小説家の温又柔さんをお招きして、三木幸美さん(とよなか国際交流協会)とのトーク「ここで暮らす」を行いました。

司会は李明哲(KEY)さんです。以下に、その一部を掲載します。

 

温:  私が10代の頃って周りに自分以外の外国ルーツの友達がほとんどいなかったんです。あんまり自分の悩みみたいなものを分かち合う場が全然なくて。なので、こういう、自分はここにいていいんだと思える場所をみなさんが積極的につくっていることにすごく感銘を受けています。 

 今日は幸美ちゃんと一緒に自分たちがどんな風に日々腹を立てて、どんな風に日々それを自分の生きる希望というか、どんな風にそれを他人と分かち合うための燃料にしてきたかについて2人で話をさせてもらえれば幸せだなっと思っています。

 

三木:  今日温さんと対談できるのがすごい嬉しくて、聞きたいこと全部聞こうと思って打ち合わせゼロでやってきました。初めて温さんの本を読んだときに、「この場に私もいる」って思ったんですよ。それは、全く同じという意味で一緒にいるってわけではなくて、同じ場所に私は多分きっとこうやっていただろうななっていう風に想像ができたり、それがものすごく実感としてあるっていうか、リアルだったんですよね。

 

温:  幸美ちゃんありがとうございます。本を読んでくれて幸美ちゃんが「私もここにいる」って思ってくれたご感想がやっぱり1人の作者としてすごい嬉しいんですね。誤解しないように言っておくと、物語と接するときに登場人物に感情移入ができたよっていう風に言われたら、それで正解とか、それで成功だと私は思わないんですね。むしろ、感情移入ができることによって、その物語をスッと食べちゃうというか、1回で終わっちゃう。…でも今、幸美ちゃんが仰ってくださったのは、本を読んでることそれ自体に自分がそこにいるっていうことを読みながら体感したって感想はすごく嬉しくて。

 どうして嬉しいかというと、私自身もやっぱり自分が独りぼっちだなって思ったときに、それを感じさせる本にいつも救われてきたんです。一方で、自分の生活は全然日本の小説にならないんだなっていう風にも思ってた。自分は小説を書いちゃいけないんだなって長く思い込んでいたんですね。でもその後、まぁいいや!日本語として日本文学として破綻してて、普通じゃないって言われてても私は私自身のことを書いちゃえ!みたいな覚悟を決めて、書いて、たぶん書いたことによって幸美ちゃんのような人が「あ、いてもいいんだ」っていうふうに思ってくれたんじゃないかなって思って、それがすごく今聞いてて救いになったんですね。

どっち喋ってもいい空気

温:  去年の年末に仕事で中国行く用事があったんですね。そのときに荷物を持って、成田空港の航空会社のチェックインカウンターに行列してました。たまたま後ろにいた家族の話し声が聞こえてきて、最初は中国語で会話が聞こえてきたんです。多分小学校1、2年生ぐらいの男の子とお母さんが中国語でペラペラペラって話してて。並びながら、この子も日本育ちの子なのかなみたいな感じでボーっと待ってたら、今度その男の子がお父さんのほうに日本語でペラペラって話したんです。…それを聞いてて、「いいな~」って思って。この子にとっては日本語で話すのも中国語で話すのもすごい自然。すごく自然なスイッチが切り替えるんですね。空港なので別にそんな珍しくはないんですよ。それを聞きながら、この子が何人かどうかってまだ全然誰も決められないんだなって思いました。

 

三木:  子どもが2カ国を喋ってる風景、私も見たことあるんですよ。実は、めっっちゃ嫌いだったんです。ちゃんと見れなかったんですよね。なんでかって言うと、私は、自分の中で言葉が切り替わらない子どもだったんですね。私のお母さんって日本に働きに来て、日本語を自分で覚えて、日本語だけで私のことを育ててくれたので、母親が母親の家族と喋ってることはわからない。

 自分の家族とつながるために勉強するってものすごく素晴らしいことなんですけど、ほんとにそれが必須なのかどうかってすごく疑問としてあって。そうじゃなくても家族として繋がれるって思ってたし、体感的に。 

 ハーフって小さいときから自分でも言っていたので、たまに質問とかで 「じゃあこういうのできるんでしょ」って聞かれるんですよ。でも、基本的にできないことのほうが多くて。それを問われて、いつもNoって答えるのがすごく嫌で。そういう自分はハーフとして何か足りてないんだっていうふうに思ってた部分があって。

 だから、私はもう日本で生まれて育っているし、言葉だって切り替えなくたって生きていけるし、と思いつつ、でも家の中で自分の母親が夜になってフィリピンの家族と喋っている言葉を一生懸命聞いてもわかんないんですよね。それを意識的に見ないようにしていた部分があって。うずうずしてる気持ちはあるんだけれど行動にできないって期間がすごい長かったのもあって、男の子のような話を聞くと、素直に「いいな」って思う気持ちと「チッ!」って思う気持ちがすごく交じるんですよね。

 

温:  この話はごめんなさい、前提があって、私も「チッ!」って思ってます(笑)。というのも、私も小さいときは中国語ができない自分がすごい恥ずかしかったんですよね。…私が最初にこのエピソードで思ったのは、その男の子が、そのことを伸び伸びとできる状況がいまの日本に出来上がりつつあるのは嬉しいなって思ったんですね。彼が「ここ日本人もいるかもしれないからちょっと中国語を控えよう」とか思わないですむ空気。どっち喋ってもいいって空気が、空港のその場では成り立ってることがやっぱり嬉しかった。 

 自分のことに置き換えていうと、私もほんとにこういう名前なので、名前を言った瞬間に「あ、日本語お上手ですね」とかって結構言われちゃうんですね。幸美ちゃんと逆で、私はこんな名前で日本語しかできない自分がすごい嫌で嫌で、やっぱり自分も中国語を勉強し始めるんですけども、台湾にいる従兄弟たちとは全然釣り合わないものしか言えないし、中国語の標準語を勉強しようとしても、どうも自分は標準語に同化できないし。すごくどっちを選んでも十全じゃない感覚がすごい強かったので。

 それをなんとかいま乗り越えて。だから今いる子どもが、自分たちみたいに変な悩みを抱かずに堂々と複数の言語を自分の母語としてそのまんま生きていったらいいなって気持ちなんですね。

どっち喋ってもいい空気

どっちでもある

三木:  外国ルーツの子どもに関わり始めて、すごくおもしろいなって思ったのが、昔ある企画で一問一答のインタビューをしたことがあって、「自分は何人ですか?」って聞くと、「日本人」って言うのに、同じ子に質問の最後のほうで「自分のことを一言で表すとなんですか?」って言うと「外国人?」みたいなふうに答えたんですよ。それってきっと、本当に心から思っていて、本当にどっちでもあるんですよね。

 私もずっと小さいときから、「結局どっちなんだ」ってよく聞かれるんですよ。日本の名前にしてるのにフィリピンのこと勉強したりとか、「ハーフだって言いたいならわかりやすく名前入れればいいじゃん」とかって言われたりすることもあって。でも私はそれをしたくないんですよね。私の母親は、私が生まれたとき(私が)無戸籍だったところから戸籍を取るっていうときに、「日本で生きていくなら日本人として生きていって欲しい」と。たしかに母 親が決めた選択ではあるんですけど、そのときの社会の外国人の見方とか、外国人として生きていくんだったらこれが難しい、娘にはあんな思いしてほしくないっていう気持ちがあって、だから日本国籍を取得して三木幸美って名前にしたんですよね。だから私はその母親の思いをすごい尊重したいなって思うし、インタビューを受けた子どもが 「日本人」でも「外国人」でもあるっていうふうに答えたその感覚が、これからもそのままであって欲しいです。

どっちでもある

温:  これはすごく本質的な問題で、やっぱりルーツを持つから、何かについてちゃんと知らなきゃいけないって圧力ってすごい強いと思うんですよ。私の場合、台湾と中国の複雑な関係もすごくあるし、台湾人のくせに、そんなことも知らないのみたいなことを日本の台湾好きな人にも言われたりして、そのたびに後ろめたい気持ちになったんですけど。よくよく考えたら、お前誰だって話ですよね(笑)。

 やっぱり台湾とフィリピンだから、今日ははっきり言っときたいと思うんですけども、その上で私たち女性なんですよ。女性である上にある意味、植民地の時代でもその後の高度経済成長期のときでも女性搾取が凄まじかった2つの場所としても、マイノリティだとそれ相当のひどい目にもあうんですね。

 でも開き直って、中国語の文章とか台湾語の教科書を見てると、親が喋ってたときの言葉とか、親戚が喋ってたときの言葉が旋律として蘇るみたいな感覚ってすごくあるんですね。ある意味忘れていた子守唄の楽譜をみつけたみたいな。

 

三木:  あれ気持ちいいですよね。快感。

切り取らせない

李:  特等席で聞いている感じですみません(笑)。イメージがもつ暴力性と言ったら言い過ぎかもしれないんですが、押しつぶされてしまう。いったい味方なのか敵なのかと考えてしまうっていう経験は、たしかに在日コリアン3世としてもあるっちゃあります。あるがままを求めるというよりも、イメージを求められるっていうのは切り取られたイメージであるし、そこで発せられる、もしくは発することを期待されるものは、切り取られた言葉であるっていうような辺りについて、少しお話をいただけたらと思います。

温:   (笑)切り取らせるっていうキーワードですね。

 

三木:  切り取らせるですね。私、今回のチラシの裏面のプロフィールに「切り取らせない言葉を発信することにこだわっている」っていうふうに書いたんで すけど、これ実は今回のプロフィールか ら初めて入れている部分なんです。自分がエッセイとか文章を書くようになって、読まれた方に「わかる~」って言われることがけっこう増えて。多くのひとに読んでもらえるのは嬉しいんですけど、そのまま話を聞いてみると意外と分かってもらえてないことのほうが多かったりするんですよ。 

 同じ言葉を使ってるんだけど、別の イメージを持っていてその言葉を使っ ちゃうってのがすごい怖いなと思っていて。思えばその経験って実は昔からあって。ハーフって自分では言うんですけど、今で はみんなダブルとかって言いますよね。 これまでハーフって言葉を自分で使うのにすごく躊躇してた時期があって、だからこそ今はあえてハーフって言葉を使っています。それは、自分で自分なりの意味をその言葉に足していくって意味で使い続けようと思っていて。あるとき自分で「ハーフです」って言ったときに先生から怒られたことがあるんですよ。「いまはダブルですからそれはダメです!」みたいな。その言葉を使って いま私が話そうとしてることを遮ってまで「お前は間違ってる」って、「これが正しいニューフェイスだ」みたいな感じでぶっこんでくるのがめっちゃ嫌で。

 

温:  普段使ってる言葉をね、知らず知らずのうちに切り取られちゃうってのは誰でも、たぶん嫌だと思うんですよね。私が思ったのは、「わかる~」って言われるときの違和感ってのは、こっちもね、言葉を使ってる限り分かってほしくて発信してるはずなのに、「わかる~」って言われたときに、安易にわかられてたまるかっていう、今度はそっちの意地が出てくるんですよ。

 

三木:  ちょっと面倒くさいですね。自分でも自分のこと面倒くさいなって思うですよ、だから(笑)。

 

温:  いやいやいや、めんどくさくない!(笑)だから伝えたいんだけど、安易に理解されてしまうような言い方を自分がしてしまったのかなって自己反省もしつつ、その上で、単にわかるという自分を私に示したかっただけの人もいるな、と思ったりして。結局、切り取らせない言葉を書こうっていうときの根っこにあるのは、わかってほしい、でもわかったって簡単に思わないで欲しいっていうすごく矛盾した気持ちなんですね。

 

三木:  私のイメージでは「わかった」って言っちゃうと、考えることが終わってしまうっていう怖さがあって。去って行ってしまうんじゃないかっていうのがすごいあるんですね。見たいときだけそういうふうに見定められるみたいな経験がすごくあって、それって始まりと終わりがすごく明確にあるじゃないですか。その終わる瞬間がすっごい切ないんですよ。より孤独さがあるっていうか。それを感じたくなくって先回りして、自分でこう言ったほうがいいのかな、こう言ったら収まるかなってことを言っちゃうこともあるし、そういう振る舞いをしてしまうってときもあって。
切り取らせない

「強くあれ」という暴力

三木:  特に、外国にルーツを持つ子どもについては、個人的に思うとこなんですけど、自分の自己決定みたいなところをする場所っていうか機会っていうのがすごく少ないというか。自分の環境に憎悪も感じていないっていうのはもちろんそうだし、かといって特に思い入れもないみたいな子が大半で、「自分のことを喋ってください」ってすっごくみんな難しいんですよね。すごく周りによって自分を決めるっていう子が多いので。

 

温:  その順応性の高さってね、ある意味武器なんですけども、ある場所でみんなで幸せに暮らすためのすごい大事な精神反応だと思うし。でも普通に学校だと、このクラス、この教室で仲間外れになっちゃたり、ヒエラルキーの下のほうにいっちゃったら生きていけないってなっちゃったら、そこで自分の杭を出すぐらいだったらいま求められている空気に順応して、そこそこやっていこうって思っちゃう子のほうが多い。それでなだめられる程度の違和感とか怒りとか切なさだったらいいんですけども、それでいっぱいいっぱいになっちゃっう場合もある。 

 自分がこの場でみんなと幸せに暮らしたい気持ち。「ここにいる」「ここで暮らす」はいいんですけれども、「ここで暮らす」ために自分を殺すことは絶対にない。その子がどんなにその場ではすごく浮いてても、でもそういう子もいていいんだっていう気持ちをみんなが持てる社会をいま一生懸命につくらないと。

 私は最初っから自分がノイズだと思ってて、そういうノイズの自分がこういうふうに自由自在に怒りを表明している姿を多少叩かれてもやり続けていきたいって思ってるんですね。生きてやる!ってことですね(笑)。

 

三木:  追っかけます私。温さんのあと追っかけてがんばります(笑)。

 

温:  熱くなっちゃった(笑)恥ずかしい(笑)でもそういうことなんですよ。

 

三木:  私、子どもと接するときに私自身が言われて嫌だった言葉があって。「強くあれ」みたいな。「どんなところでも自分を自分らしく誇りに持って強く生きろ」みたいなことを言われた時期があって。それは、確かにそうやって強く生き延びてきた人もいるんだけれど、私にとってはすごく荷の重い覚悟で、それがずっとできなかったんですよ。そういうふうには頑張れないなって思っていたから、自分たちも子どもと関わるときには「強くあれ」とは絶対に言わないんですね。ただ、譲らないラインを自分で決めていいんだ、とは言います。

「強くあれ」という暴力

温:  ほんと強さっていろんな意味があってね。眼の前の人を殴る強さもあれば、口で勝つ強さもあるし、いろんな強さがあるんですけれども、自分が絶対耐えられないところに気づいてうまく逃げることも強さの1つ。長く豊かに自分を信じてくれる人と出会えると信じてうまく逃げることも強さの1つ。私が仮に強いと言われるならそれが上手かったんですよ。ちっちゃいときから 「なんか変。なんか変」って思うときにたまたま信じてくれる人がそばにいた。たまたま「そういう温ちゃんがいいよ」って言う人がたまたま学校ではないところにいた。そのたまたまを、もっとこれから大人として作っていけるように協力したいなって思う。「強くあれ」は暴力ですね(笑)。結局は楽しく、生きてるってことで、なにかいま生きづらい気持ちになってる若い子たちがちょっとでも参考にしてもらえたらラッキーかなぐらいな気持ちでいます。

カットインパクト

李:  ずっとお話されてきた中身っていうのは、まさに日常の中のやり取りから生まれてくる話が肉付けされていくって感じがしたんですが、それはやっぱり言葉に置き換えるってことが難しい。それはなぜかって言ったら、既存の言葉やイメージになったり、切り取ってしまうからですよね。今、SNSとかで切り取ることがとっても多いですよね。

 ぼくの中では「カットインパクト」っていう言葉を勝手に作ってるんですが。何でもカットするんですよね。カットしてインパクトが勝負だと。とにかくカットインパクトなのでその周りの文脈とかコンテキストが全く無くてもそこで勝負するっていう。そうなると、僕たち、私達がいま話してたような日常の中でそれぞれが考えたり悩んだりしている文脈みたいなところって、どうやったらいまの現代で重要性っていうか、わかってもらえるのかなっていうのを考えておりまして。

 

温:  カットインパクト、もう使っちゃっていいんですよね?(笑)カットインパクトを重ねて、それイコール自分の自己肯定になっちゃう状況が実はすごく歪んでる。でも、短いカットインパクトで、ああだこうだ言う人の声のほうが目立ったりするんですよ、SNSって。それに騙されたくないというか、カットインパクトだけが世界の刺激って思っている人たちの意識をもうちょっと緩やかな方に連れ戻したいって気持ちがあるんですね。その仕方をみんなで考えなきゃなっ

て時期だなって思います。

三木:  カットさせない言葉を書くってすごく難しいと思うし、土壌としてはそういうのがすでにベースになってしまっていて、それでも、その中で極力そうさせないって言葉を書いていくしかないですよね。私は、自分自身の話を書くときは、色んなところに散らばっている要素を、土壌が似てたりして全部繋げるとなんとなく1つになるみたいな感覚があって。それってよく考えると逆に切り取りにくい言葉になってると思うんですよね。点在型で色んなところにそれって現れるんだっていうことを忘れちゃいけないなって思っていて。

 

温:  幸美ちゃん自身は点在しているっていうふうにお話なさってたけど、単に規範に乗っからない自分の軸みたいなものにすごく忠実な方なんじゃないかなって思う。マイノリティはこうを語るとか、女性だったらこう語るみたいなものに乗っからずに、自由で逸脱しつつも固有の軸みたいなもので距離を保つっていうのは、やっぱり私が小説でやりたいことでもあるので。だから、今日すごく2人盛り上がったんじゃないかなっていうふうに思っています(笑)。

 

カットインパクト

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