移住連とは

移住連とは

移住者と連帯するネットワークは、日本に住む移住者の権利を守り、その自立への活動を支え、多民族・多文化が共生する日本社会を作るために1997年に発足しました。この多文化・多民族共生社会をつくるため、全国の各地域/領域の団体約90団体と個人をネットワークで結び、情報交換・相互協力体制を強化し、共同行動をコーディネートします。また主にアジア地域での移住者支援NGOとのネットワークもすすめています。

移住連の活動         

1 つくる Advocacy

-政策提言、省庁交渉、ロビーイングなど

国政レベルでの制度・政策の改革と、地域での取り組みをつなげることは、外国人移住者の人たちの権利確立へと実を結ぶ鍵となります。そのために、移住連は大きな役割を担っています。

2 つながる  Networking

-全国フォーラム、全国ワークショップ、アジアネットワークによるキャンペーンなど

日本国内のNGOやアジアをはじめとする海外のNGOと情報交換、キャンペーンやイベント開催などを行なっています。また、移住女性、研修・技能実習生、医療、差別、入管法をテーマとしたプロジェクトや国際人権部、そして、情勢に応じた緊急プロジェクトなどをたちあげ、ネットワークを活かした活動を行っています。

3 つたえる Publicity

-情報発信、出版、ホームページなど

外国人移住者だけでなく、さまざまな人々を対象に役立つ情報の収集・発信をしています。

・「M-ネット」(日本語)

・生活マニュアル(日英・日中対訳)、ブックレットの発行

・政策提言、ホームページ

 

移住連の成り立ち

1987年3月、移住連の前身といえる「アジア人労働者問題懇談会」(アジ懇)が結成された。移住者の権利を守る市民団体は、当時「女性の家HELP」と「滞日アジア女性問題を考える会」以外、まだ正式発足していなかった。しかし「アジ懇」の発足と前後して、移住女性労働者の支援団体、寄せ場を中心とした移住男性労働者の支援団体や、地域の中小企業の労働現場を中心とする支援団体が結成され始めた。横浜市寿日雇労働組合に駆け込んだフィリピン人男性の救援をきっかけにして、1987年5月、「カラバオの会(=寿外国人出稼ぎ労働者と連帯する会)」が誕生。同年、愛知県では「不法滞在」状態で半年間賃金未払いのまま働かされ、自殺を図ったフィリピン人少女の救援活動で結集したメンバーをもとに、「あるすの会(=滞日アジア労働者とともに生きる会)」が発足している。

バブル崩壊後の不況の中では、労働現場で外国人労働者の解雇、賃金不払い、労災問題などが噴出する一方、入管が取り締まり・締め出し強化を図った。またマスメディアは、1980年代後半、移住労働者に対する人権侵害問題を盛んに取り上げていたのと180度転回するかのように、外国人犯罪や密入国といったネガティブな報道を繰り返すようになり、日本社会の中に徐々にゼノフォビア(外国人排斥)が蔓延していった。

これに対し、移住労働者の権利を守る支援団体も続々と生まれ、その数は1980年代後半から90年代初めにかけての5年間で約10団体から100団体へ10倍に急増した。しかし、救援依頼・救援件数の増加スピードに、救援体制が追いつかず、横浜市で活動するカラバオの会に、近畿や東北からも相談がきて、北関東まで交渉に出かけるケースも出た。

こうした状況を受けて、関東全域にまたがる地域ネットワークづくりと、関東北部地域における支援体制づくりを目指し、1991年4月、埼玉県で「関東外国人労働者問題フォーラム」が開かれたのである。このフォーラムを機に、関東北部で新たな支援組織が生まれ、中部地方でも組織化が始まった。外国人労働者問題フォーラムは、92年には範囲を「関東甲信越」に(群馬県で開催)、94年には「東日本」全域に広げ(神奈川県で開催)、全国ネットワーク化の機運が高まった。そして1996年、福岡で「第1回移住(外国人)労働者問題全国フォーラム」が開かれ、全国ネットワークの結成を呼びかける声明が採択された。こうした経緯を経て、(1)アジ懇で有志によって担われてきたネットワーク機能と情報センター的役割を組織的に整え、(2)全国フォーラムを開くところまで強められてきた全国的なネットワークを継続的なものにし、(3)それまで連携が不十分だった労働運動の領域での移住労働者支援活動やJFC(日比国際児)の支援運動問題の取り組みとも結合することによって、より強力な全国規模のネットワークを築き、力を結集すべく、1997年4月の第2回全国フォーラム(愛知)で、移住連の結成が図られたのである。


日本で「外国人労働者問題」がクローズアップされ、その救援団体が結成され、活動し始めるのは1980年代半ばからだが、問題の発端は、日本企業が海外移転を始めた1970年代初頭まで遡る。日本の資本や性産業が経済進出や買春ツアーという形で周辺アジア諸国に波及し、また日本の零細企業や性産業が彼・彼女らを「必要として連れてきた」ことが始まりである。そして1980年前後から、経済進出に伴って広まった日本人男性による周辺アジア諸国への買春ツアーが、国際的批判等を受けて減退する。

逆に周辺アジア諸国の女性を来日させ、日本国内の性風俗産業で働かせる「じゃぱゆきさん」問題が増え始めた。これに対し、日本キリスト教婦人矯風会が、国籍を問わず、女性が危急の際非難する場所としての「かけこみセンター」の設立を決議。1986年4月、「女性の家HELP」が開設された。この頃から、来日アジア人女性への人権侵害をマスコミが頻繁に報道し始めた。今度は、建築や道路工事など通称3K(きつい、汚い、危険)労働に従事する周辺アジア諸国出身の男性労働者が急増し、移住労働者の男女比は88年に逆転する。経済界、労働界、学者らの間で「外国人労働者受入れの是非」をめぐる論争が巻き起こったのは、この頃である。1980年代後半以降の移住労働者の急激な流入も、1985年9月のプラザ合意で円高が進み、日本がバブル経済に沸くという先進国主導の国際経済体制が引き起こしたものである。アジア人の出稼ぎは、先進国主導の国際経済体制によって構造化された第三世界との不平等な関係が引き起こした現象といえよう。


アジ懇が発足した1980年代後半から1990年代前半にかけて、移住労働者の人口が急増し、多民族・多文化共生という言葉が広まる一方、異文化摩擦や排外主義も蔓延していった。政府は経済界の要請に応え、入管法改定や技能実習制度の導入などを通じ、雇用者が安価で無権利な労働力として外国人を利用し得るシステムをつくってきた。法務省は、「不法就労」するアジア人出稼ぎ労働者の急増への対策として、1990年の改定入管法で、「就労が認められない在留資格」を明確化し、「不法就労助長罪」を新設する一方、経済界の需要に応えて、(a)日系人を「定住者」という資格で受入れ、(b)研修と労働をからませた「研修制度」を設け、労働力として活用する措置を講じた。こうして、「単純労働者は受け入れない」という建前の裏で、これらの人々が実質的に「単純労働者」として日本の産業構造に組み込まれていき、90年代の移住者問題の中で大きな比重を占めるようになる。

研修生は労働者ではないので、労働基準は適用されず、「労働諸法令の適用を受けない労働者」として搾取された。いっぽう日系南米人の多くが家族単位で日本へ移住し、単身の出稼ぎ労働者が焦点だった日本の移住者問題は、子どもの教育や家族の生活を含めた移民問題に拡大した。また80年代からの移住者の中で日本人との結婚等で家庭を築く人も増え、90年代を通じ、移住者問題の中で、家族生活や子どもの教育をめぐる問題が次第に大きくなっていった。

 (岡本雅享「移住連のこれまでとこれから」『Mネット』2004年10月号を要約」

移住連、国の移住者をめぐる政策に関する 年表(1979~2005)

『向かい風の時代のなかで~ 10年をふり返って』移住連活動10周年、『Mネット』2007年6月号から

ページ上部へ戻る